伊豆の歴史的な名所

江川邸住宅(国指定重要文化財)

主屋は単層入母屋造りの壮大な建物で、「小屋組づくり」と呼ばれる幾何学的な屋根裏の木組みは、今日でいう免震構造になっている。三和土の土間には立ち木をそのまま柱にしたと伝えられる「生き柱」や、日蓮直筆の「比伏せの護符」を納めた棟札箱が見られる。これまで一度も火災にあっていないことから、文書類・書画・武具を始めとする様々な品が残っており、その一部は屋内に展示されている。江川家は41代・900年続く大和源氏の末裔で、江戸時代には旗本として11代273年間、天領伊豆の代官を務めた。歴代の代官はいずれも治安維持と民政に意を注ぎ、特に江川英龍(36代江川太郎左衛門・坦庵)は名代官として知られ、海防の必要性から沿岸測量、韮山反射炉やお台場の建設、わが国最初の様式帆船建造や種痘の実施、パン製造など多大な業績を残している。邸内には「パン祖の碑」が立てられている。

韮山反射炉(国指定史跡)

嘉永6年(1853年)のペリー来航により、日本は外国の脅威にさらされた。江戸湾海防の実務責任者となった江川英龍(36代江川太郎左衛門・坦庵)に対して、幕府は江戸内湾への台場築造と平行して、反射炉の建造を許可する。ペリー来航以前から反射炉の研究を続けていた英龍であったが、蘭書の記述のみを頼りに大規模な反射炉を建造することは非常に困難が伴った。建設予定地は下田港に近い加茂郡本郷村(現下田市高馬)とされ、その年の12月には基礎工事が始められた。しかし、翌、安政元年3月末、下田に入港していたペリー艦隊の水兵が、反射炉建設地内に進入するという事件がおこり、急遽、反射炉建設地を韮山代官所に近い田方郡中村(現伊豆の国市中)に移転することになった。反射炉は、蘭書に基づいた連双式(溶解炉を二つ備える)を2基、直角に配置した形となっていた。つまり、四つの溶解炉を同時に稼動させることが可能になった。しかし安政2年(1855年)正月、江川英龍は反射炉の竣工を見ることなく病死してしまい、後を継いだ江川英敏は、蘭学の導入に積極的で、反射炉の建造も行っていた佐賀藩に応援を求め、技師の派遣を要請した。その結果、安政4年(1857)11月、反射炉は着工から3年半の歳月をかけて、ようやく完成した。完成した反射炉では、元治元年(1864年)に使用が中止されるまでに、数多くの鉄製砲が鋳造されました。これらの大砲は品川台場に28門配備された。

上白岩遺跡(国指定史跡)

伊豆半島を貫流する狩野川流入する大見川の合流点から約3.5キロ遡った大見川の右岸、河岸段丘上に所在する繩文時代の遺跡である。発掘調査の結果、繩文時代中期後半から後期初頭の配石遺構・住居跡等の存在が確認された。配石遺構は、環状列石・帯状列石・石組等の形態を示している。環状列石は、直径12m、巨石や細長い石材を連らね、処々に組石のいくつかの単位がみとめられる。また、各単位の中心部に配置された細長い石については、あるいは、直立していたものとも考えられ、現実に環状列石の西側に発見された1つの石組には、直立の例がある。帯状列石は、環状列石の南に構築され、長さ約10mを測る。これに接して長径約2mの円形の組石がみとめられた。配石遺構には、自然石だけでなく、石皿・石棒のほか、自然石の一部を研磨して平坦面を作るものなど、石器が少なくない。なお、処々に配されている組石の下部には土壙がみとめられ、組石墓かと推定される。環状列石の外側には、繩文時代中期後半に属する4基の竪穴住居跡と、約60基の土壙も検出されている。出土遺物は、土器・石器等膨大な量にのぼり、伊豆半島における繩文時代中期後半から後期初頭の基礎的な資料となるものである。

山木遺跡の生産・生活用具(国指定重要有形民俗文化財)

今から約1800年前の水田稲作遺跡として知られる山木遺跡は、昭和25年(1950年)に発掘され、登呂遺跡、唐古・鍵遺跡と並んで国を代表する弥生時代後期の遺跡である。特に水田稲作に使われた大量の木製農機具の出土が特徴的であり、田下駄・田舟などのほか、高床倉庫の梯子や柱に付けた状態で発見された「ネズミ返し」など、山木遺跡での出土状態から初めてその用途が明らかになったものもある。 遺物のうち239点が国の重要有形民俗文化財に指定されており、当時の生活を知る上に貴重であり、また後世の生産用具や生活用具との関連を知る上にきわめて重要である。

天城山隧道(国指定重要文化財)

天城山隧道は、伊豆半島ほぼ中央部にある天城峠付近の標高約710m地点に穿たれた石造隧道である。三島と下田を結び伊豆半島を縦断する下田街道の改良工事の一環として、明治33年(1900年)に起工,同37年に竣工した。全長約444.5m、幅員約4.1mの規模で,隧道両端に石造坑門を構える。川端康成の小説『伊豆の踊り子』や井上靖の「しろばんば」、松本清張の小説『天城越え』など数多くの小説の舞台として使われている。アーチや側面などすべて切り石で建造され、石造道路トンネルとしては、日本に現存する最大長を有する土木構造物である。天城トンネルは1998年、国の登録有形文化財に登録され、2001年には道路トンネルとしては初めて国の重要文化財に指定された。日本の道100選にも選ばれている。

了仙寺

了仙寺は寛永12年(1635年)、第2代下田奉行・今村伝四郎正長によって創建された。大阪夏の陣の時、目に病を持たれた徳川家康公は、家臣の勧めにより、当時目の神様として崇められていた身延山久遠寺第十一世の行学院日朝上人に病気平癒の願をかけられた。その祈願が成就したため、徳川政権安定の時に寺を建立することを約束した。今村正長公によって創建された了仙寺には、当時の幕府の将軍・徳川家光より朱印状によって領地が与えられ、家康公の祈願成就に奉じた。従って、了仙寺の寺紋は徳川家の紋である三つ葉葵である。嘉永7年(1854年)、日米和親条約が締結され、ペリー艦隊が開港された下田に入港すると、了仙寺はペリー一行の応接所兼幕府との交渉場所となり、和親条約の細かい取り決めである下田条約がここで結ばれた。